2019/8/18(日)
あなたは、東日本大震災の津波で女川町になにがあったかご存じですか?
【悲しみと怒りでいっぱいになりました】
あなたは、東日本大震災の津波で、宮城県女川町でなにがあったかご存じですか?
私は、二人の親として、今まで恥ずかしながら知りませんでした。
今回知るきっかけをくれたのが、高一の娘でした。
それは、娘が女川に行って話を聞きたい方がいると言ってくれたからです。
その方とは震災当時25歳だった息子さんを津波で亡くされた田村さんご夫婦
昨日女川でお会いすることができました
お会いした場所は田村さんと他ご遺族がご自身で建てた慰霊碑前
その慰霊碑は、スーツ姿の男女の姿を彫った慰霊碑でした
なぜそのような姿なのか
それは、息子さんが当時銀行に努めていて銀行の屋上で、他11名の職員と津波にのまれたから
息子さんは、探し続けて半年後3キロ離れた場所で遺体でみつかりました
田村さんは、息子さんはずっとどこかで生きている
もしかしたら、頭をうって記憶喪失になり連絡とれないのかもと考えたり絶対生きていると信じていたそうです。
そこに、息子さんの発見。現実を受け入れられずいたそうです。
息子さんの小さい時からの写真をみせていただきました。
やんちゃで学校に呼び出されたお話し
野球の試合を応援にいったお話しなど昔のことを思い出しながら笑顔と共にお話しされました
その姿に、当たり前と思っている今の生活が、当たり前ではなく幸せなことで、
今こうして私が子供達といれている現実を突然失ったら、計り知れない悲しみだろうと涙が止まらなくなりました。
田村さんは、子供達に
「親より早く死んじゃいけないよ」と言ってくれ、
「息子のお墓を自分が建てるとは思わなかった」とおっしゃいました
私は、なんて言葉をかけたらよいか、ただ泣きながら聞くことしかできなかった…
そして、悲しみと同時に怒りでいっぱいになりました。
なぜ、怒りなのか、
それは、息子さんの命が助かるはずの命だったからです。
会社の防災意識の欠如、会社の避難指示の誤りがなければ、息子さんは助かっていた。
当時の支店長が指示した避難先は、銀行の屋上
走れば一分で行ける町が避難先に指定している高台があったのに…
そこに避難していたら、息子さんをはじめ銀行行員の命は助かっていたんです
他の女川の金融機関は、全て従業員が高台に避難し無事だったにもかかわらず…
息子さんの銀行で唯一助かった方の話では、行員同士で高台に逃げた方が良いのではという話がでていたそうです。
にもかかわらず、会社の命令に背けない空気がそこにあったのでしょう…
もっと会社に防災意識があったなら、助かっていたんです。田村さんのように計り知れない悲しみを一生抱える家族を減らせたんです。
田村さんが今なぜ活動しているかというと
息子さんの命を無駄にしないように、自分達と同じ悲しみを他の方に味わってほしくないと、企業防災の意識向上を発信しています。
いまだに、息子さんの会社から会社の非を認める納得ができる答えが返ってこないといいます。
息子さんは親孝行のため地元の憧れていた銀行に入社し仕事を頑張っていました。その頑張っていた息子さんの思い、ご両親の想いが伝わらない銀行に怒りを感じます。
この教訓、女川であったことを広く知ってもらいたい
もしお時間があえば、田村さんのお話を聞いてください。必要あれば、田村さんにおつなぎします。
当たり前の日々があたりまえじゃないことを知ることができます。
また、この教訓を多くの方に知っていただくことで、助かる命を増やすことができるんです。
田村さんの活動が多くの方に届きますように